THE NEXTALK ~次の世界へ~ モータースポーツジャーナリスト 高橋二朗 インタビュー(2/5)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
モータースポーツのそばに居たい!
生まれて間もなく東京から神奈川県へ引っ越した高橋二朗は、今日のF1ドライバーたちが歩む道と同じように、12歳で早くもレーシングカートのライセンスを取得し、カートレースに取り組んだ。
【高橋二朗】4歳上の兄貴がモータースポーツ好きで、中学生のころから富士スピードウェイにレースを観に行っていたんですよ。そしたら兄貴が何処からかゴーカートを手に入れて来て、富士山麓の須走のコースを走ったり、家の近くのカートチームに所属したりしました。
成り行きからして当然、4輪レースのプロになれるんじゃないか?なんて、夢はあったけれど、宮城県のSUGO(国際レーシングコース:筆者注)のレースにも出てみて、〈ダメだな〉と…。 じゃぁどうしようって思って…会社員じゃぁ面白くないし、自分の好きなこと、レースやクルマの近くに居たいと思うけど、レーシングメカニックでもない。昔から読んでいたレース雑誌の世界もあるけど、編集者でもない…と考えていて、レースレポーターという仕事があるなと。それで、海外も視野に入れるなら英語も必要だというので、英語学校に通ったんです。
英語学校のすぐ近くに、カーグラフィックの編集部があって「バイトさせてくれませんか?」と、いきなり扉を叩いた。そしたら、「いま編集長が不在だけど、仕事はないと思うよ」と。
その晩、小林彰太郎さん(カーグラフィック創刊者:筆者注)から直接電話が掛かってきて、丁寧な断りの連絡をもらいました。ちょうどそのとき、山海堂でアルバイトを募集しているというので、今度はちゃんと電話をして(笑)、アポイントメントを取って行ったら、他に応募の人が来ていなかったみたいで、「じゃぁやってもらおうか」と、膨大な写真の整理をやらせてもらったんです。
最初から、社員になろうなんて思っていませんでした。仕事のやり方を盗んでやろうと、アルバイトしか考えていません。そして、そこで出会った人たちが、素晴らしかった。 たぐいまれな才能の持ち主、林信次(モータースポーツ界の生き字引と言われる人物:筆者注)が、山海堂のオートテクニック誌に居たし、石崎芳人さん(グラフィックデザイナー:筆者注)とも知り合えた。
当時は海老名に住んでいて、そこから都内(文京区本郷)の山海堂へ通うのに2時間くらい掛かる。それで、デイパックに寝袋を突っ込んで会社に泊まろうとしたら、石崎さんが「うちに来るか?」って。それが70年代後半で、レース界もオイルショックから立ち直って上向きはじめ、だから、まだ駆け出しなのだけど、忙しいときには原稿をいっぱい書いて、30万円くらいになり、「こりゃいいや」って。
高橋二朗自身は、そうした経緯を「行き当たりばったりの、猪突猛進だ」と言うが、それくらいの行動力がなければ、とてもフリーランスでやっていくことはできない。 自らの道を切り拓く力が、彼にはある。
【高橋二朗】1980年だったかな…鈴木亜久里(元F1ドライバー:筆者注)が出ていた香港カートプリというレーシングカートのレースを取材に行ったのが、海外取材の最初ですね。その後、83年6月には初めてル・マン24時間レースの取材に行き、同じ年の11月には、チームいすゞのラリーチームのスタッフとしてRACラリー(1932年から英国ウェールズで開催される国際ラリー競技:筆者注)に参加しました。
最初は、従軍記者として行く予定だったんだけど、「英語ができるなら手伝って」と言われて、チームに加わることに。 86年ごろからテレビの仕事も声が掛かるようになって、国内レースのピットレポーターをやりながら、89年のインディ500では、東洋人として初めて、ガソリンアレーと呼ばれるピットレポートをやらせてもらい、国際衛星回線を使って中継されたんです。
このテレビの仕事で、高橋二朗は気付かされることがあったと話す。
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