日産ブースでスーパースポーツカーMID4(II)を発見!市販化が叶わなかった幻の名車【オートモビルカウンシル 2018】

2018年は日産が海外でのモータースポーツ活動を開始して60周年

オートモビルカウンシルで常連となりつつある日産の今年の展示テーマは「60 years of performance」。これは、2018年が日産が海外でのモータースポーツ活動を開始してから60年にあたることによるもの。

そこで今回、ヘリテージカーとして60年前に海外のラリーにチャレンジしたそのクルマ「ダットサン1000セダン『富士号』」(ダットサン210型/1958年)を中心に、日産高性能車で誰しもが認める代表格であり、かつツーリングカーレースで前人未到の通算50勝達成という輝かしき戦歴を誇るスカイライン2000GT-R(KPGC10型/1972年)、そしてニッサンMID4( II型)(1987年、東京モーターショー出品のコンセプトカー)がブースを飾った。

またダットサン1000セダン『富士号』の真後ひな壇上には、電気自動車フォーミュラカーレース「FIAフォーミュラE選手権」に参戦予定のNISSAN Formula Eが現代のマシンを代表して持ち込まれた。富士号とFormula Eが一直線に並ぶことで日産が海外のモータースポーツに挑戦してきた60周年を象徴する配置となっていたのが印象的だ。

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初代ニスモ社長・難波靖治氏もステアリングを握った「富士号」

時は1950年代。1956年に「もはや戦後ではない」と経済白書に文字が躍った頃でも、日本車のマイカー時代はまだ遠く、欧米の自動車メーカーからの技術を昇華させながら、懸命に前に進もうとしていた。しかし海外との性能差はまだ歴然だった。

そこで日産は今からちょうど60年前の1958年、日産車の性能や耐久性がどれほどあるのかを確かめるべく、世界で最も過酷と称されたオーストラリアのラリーイベント「モービルガス トライアル」に、2台のダットサン210型を「富士号(ボディカラー:赤)」「桜号(ピンク色)」と名付けて出場させたのだ。これは国際競技への日本初参戦でもあった。

その結果、富士号は1万6000kmを19日間で走破。1000cc以下のクラスで優勝・総合25位、桜号は総合4位という好成績でゴールを迎えることができた。この時富士号のステアリングを握ったドライバーの中に、当時日産の社員で、のちにニスモの初代社長を務めた難波靖治氏がいた。難波氏はその後日産のラリー活動を指揮し、「ラリーの日産」のイメージを作った立役者となった。

日産のヘリテイジコレクションに収蔵されている富士号は、2011年に日産従業員の有志で構成される名車再生クラブによってレストアされ、現在も美しいコンディションを保つ。手書きのレタリングも見事に再現されているほか、助手席足元に置かれたオーストラリア軍の放出品という羅針盤も置かれている。

右側フロントフェンダーが大きく凹んだ状態だが、これは当時完走したそのままの姿で保存することに意義があるためだ。ダッシュボードには難波氏のサインとご本人による「承認」のサインが見られ、レストアが完璧だったことを物語る。また、リアガラスの上には当時のままのお守りが置かれているが、そのうち一つは3人のドライバーの一人G・ウィルキンソン氏がのちに持ち寄ったものだという。

余談だが、1960年代~70年代の日産ラリーカーが赤いボディに黒いボンネットなのは、競技中にボンネットの反射が眩しくて黒くしたものなのだとか。60年の深い歴史を感じさせる一台だった。

市販前提で開発されたスーパースポーツカー「MID4(II型)」

40代の筆者は、1980年代半ばは車好きな中学高校生だった。そんな自分にとって衝撃的だったことの一つに、日産 MID4というコンセプトカーがあった。

初代MID4は1985年のフランクフルトショーに登場。3リッターV6DOHCのVG30DE型エンジンを、その名の通りミッドに横置き搭載し、4輪を駆動した“和製スーパーカー”だった。MID4はあくまでも実験車の域を出ていなかったが、2年後の1987年、MID4-II(II型)として東京モーターショーに再び姿を見せた。

素晴らしく洗練された姿で、しかも市販するかもしれないという予感まで引き連れて!流麗なルーフ、肩のエッジから滑らかにつながるリアデッキ、横一文字のテールライトなど虚飾を配したシンプルかつ美しいデザインにノックアウトされたものだ。

性能もピカイチだった。VG30型エンジンはインタークーラーを備えたツインターボ化でVG30DETTとなり、330psまでパワーを上げ、縦置きに搭載された。足回りではリアサスペンションがマルチリンクとなり、4輪操舵システム(4WS)「HICAS(ハイキャス)」が組み込まれていた。

2017年にレストアされて実際に走行することも可能となった同車を改めて見てみると、各部位の作られ方や灯火類に量産が前提で開発されていたことが確かに窺える。試作車では得てして作るのにコストがかかる外装部品は他車からの流用が多くなるが、MID4-IIではフロントのターンシグナルやマーカーまで市販車と同じレベルで作られていた。

しかし、日産は結果としてこのクルマの市販を断念する。その理由は市販予定価格が2000万円以上になってしまったからだという。1987年の2000万円と現在の2000万円とは価値基準が異なることは言うまでもない。

残念ながらMID4-IIの市販化はこうしてなくなったものの、VG30DETT型エンジンはフェアレディZ(Z32型)のエンジンへ、4WDと4WSの組み合わせはのちのスカイラインGT−R(R32型)へと受け継がれた。

つまりMID4−IIは第3世代のスカイラインGT-R(R32~R34型)、そして現在のGT−R(R35型)の技術の源流とも言えるエポックカーなのだった。富士号を挟んで初代GT−Rが並べられていたその配置にも日産の展示のこだわりを見た気がした。

[TEXT:遠藤 イヅル/PHOTO:和田清志]

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遠藤 イヅル
筆者遠藤 イヅル

1971年生まれ。カーデザイン専門学校を卒業後、メーカー系レース部門にデザイナーとして在籍。その後会社員デザイナーとして働き、イラストレーター/ライターへ。とくに、本国では売れたのに日本ではほとんど見ることの出来ない実用車に興奮する。20年で所有した17台のうち、フランス車は11台。おふらんすかぶれ。おまけにディープな鉄ちゃん。記事一覧を見る

樺田 卓也 (MOTA編集長)
監修者樺田 卓也 (MOTA編集長)

自動車業界歴25年。自動車に関わるリテール営業からサービス・商品企画などに長らく従事。昨今の自動車販売業界に精通し、売れ筋の車について豊富な知識を持つ。車を買う人・車を売る人、双方の視点を柔軟に持つ強力なブレイン。ユーザーにとって価値があるコンテンツ・サービスを提供することをモットーとしている。

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