THE NEXTALK ~次の世界へ~ トヨタ チーム トムス 監督 舘信秀インタビュー(2/5)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
レースは、何が面白いのか?
欧米においてモータースポーツは、人々の中に浸透した数あるスポーツの一つだ。自動車レースが催されるサーキットへ行けば、スポーツ観戦の場として老若男女が当たり前のように集う姿を見ることができる。
しかし日本では、80~90年代のF1ブームを含め、一部の熱狂的ファンしか集まらない状況が、今も変わっていない。リーマンショック以後には、自動車関連産業の撤退も相次ぐ。
延べ45年以上レースの世界に身を置く舘信秀にとって、レースとは?クルマとは?
【舘信秀】レースの魅力を言葉で云うのは難しいよね。 実は、僕は子供のころはクルマにまったく興味が無くてね、排ガスで気持ち悪くなったくらいなんですよ。
バスで出かけるときもクルマ酔いするというので、一番前の席に座って、「前を見ていれば酔わない」とか言われていたくらい(笑)。三半規管の問題でしょう。そのころは酔い止めの薬なんか無かったんじゃないかなぁ。
中学から高校時代にやっていたバスケット仲間にクルマ好きが大勢いて、第2回日本グランプリを観に行こうという話になった。学生で金もないから、「お前は三重県鈴鹿が実家だから泊まらせろ」と(第2回日本グランプリは、三重県鈴鹿サーキットで開催された:筆者注)。それなら自分も一緒に行こうということで観に行ったら、音、スピード、臭い・・・まさに五感で感じたんだよね、レースを。こういう世界があるんだ!。クルマはかっこいいと、ここで初めて思ったね。
その意味で、今もレースの魅力を伝えるには、市街地レースがいいと思っていますよ。大勢の人が身近にレースを体験できれば、魅力に憑りつかれるんじゃないですか?当時は、式場壮吉のポルシェ904や、生沢徹のスカイラインGT、あと、いすゞのベレットGTなんかが華だったけど、それらは16~17歳の高校生の手に入るようなクルマではなく、僕は軽自動車のレースに興味があったね。スバル360、マツダ・キャロル、スズキのスズライトとか・・・。
2ストロークエンジンだから、カストロールのオイルの焼けた臭いや、排気音に惹かれて。軽自動車なら、免許を取れば自分でも乗れる身近さもあった。
かつて、日本には軽自動車限定の運転免許証制度があった。それは1952年(昭和27年)に新設され、68年(昭和43年)に廃止となる。軽自動車は、1949年(昭和24年)に規格が制定され、以後何度か内容が改定されながら今日に至る。
舘信秀ら、当時の高校生はもとよりその時代のサラリーマンにとっても、軽自動車は憧れのマイカー候補だった。各自動車メーカーは、軽自動車のレースに凌ぎを削って自車の魅力を訴え、販売成績に結び付けようとした。各社の威信と存続を賭けた、そんなレースが面白くないはずがない。
【舘信秀】16歳で軽免許が取れたけど、親がクルマを買うのは反対でね、18歳になるまでは友達のクルマでヒルクライム(山道を登って競うタイムトライアル)やジムカーナ(駐車場など広場に臨時コースを特設して競うタイムトライアル)に出ていた。
18歳で普通免許を取って、自分で買った最初のクルマが、トヨタ・パブリカ700、19万円!。値段は今も覚えている、中古だったけどね。パブリカは、第2回日本グランプリのツーリングカークラスで1~6位まで上位を独占した。しかも大衆車だというので値段も安かったから、手ごろだったんです。
パブリカ700を買ってレース用に改造するために持って行った店が、パブリカ高島屋というディーラーですよ。そこに、のちに一緒にトムスをはじめた大岩が居た。バイトした金でレース用にクルマを改造していくんだけど、どうやったと思う?。
サスペンションのバネを切って車高を下げ、リアのリーフスプリングは上下逆にして、そうすると反りが逆になるから車高が下がる。マフラーもレース用に変えた。ただ全部をパブリカ高島屋でやってもらうんじゃなく、軽量化だとか言ってボール紙でボンネットフードを自分たちで作ったりしてさ(笑)、レースに出る前後の3~4か月の間ずっと楽しい。そういうのが僕は好きなんだね。
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