THE NEXTALK ~次の世界へ~ トヨタ チーム トムス 監督 舘信秀インタビュー(3/5)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
【舘信秀】その2位になった時のレースを、トヨタの人は覚えていてくれたみたい。でも一年くらい経ったら自分でレースに出るにはお金も尽き果て、当時は、自動車メーカーの自動車クラブに入ることがレースを続ける一つの道だったので、TMSC(トヨタ・モーター・スポーツ・クラブ/現在は舘信秀会長)に入会した。プロになりたいというより、レーサーになりたかったんだよね、僕は。
当時の先輩はみんな格好良くてさ、乗っているクルマも格好良いし、一緒の女性もきれい、すべてが格好良くて憧れちゃう。そしてファクトリーチームのテスト走行を見に行ったりしていたら、「一回乗ってみろ」と。船橋での2位というのがあったからだと思うけれど、いよいよレース出場にこぎつけ、そのための練習をしていた時に事故にあったんだ。
乗っていたトヨタS800のドライブシャフトが折れて、横転。はずみで右手が車外に出た。救急車で運ばれた近所の病院では「右手を切断しないとダメだ」と言われた。だけど、付き添ったトヨタの人が、「別の病院でも切断だと診断したら、やむを得ない」と言って、慈恵医大に僕を運んでくれたんですよ。今でいえば、セカンドオピニオンというやつ。そのとき慈恵医大までクルマを運転してくれたのが、先輩の川合稔さん(1970年のテスト走行中に死亡)でした。
そうしたら、ちょうど手の外科の権威という名医が慈恵医大に居て、お腹の皮を移植してくれた。指の筋も切れて動かなかったけど、アキレス腱には使われていない無駄な腱があるとかで、それでつないでくれたんです。ただ、右手の握力は今でも10kgくらいしかないけどね。このケガをきっかけに、絶対にプロになってやろうと僕は思った。
僕は多趣味な方で、それまでプラモデルや、ラジオ、バスケットとかいろいろやってきたけど、どれも中途半端だったんだよね。ここでレースをやめたら、これも中途半端になってしまうと思ったわけ。それまではレースに反対だった親も、僕の決意に諦めがついたみたい。
舘信秀と握手をした。その右手は、女性の手ではないかと思えるほどやわらかく、また握り返してくる力はたしかに弱かった。サーキットを走行するのに、そんなに弱い握力でよくハンドルを握っていられたものだと思う。
いまでこそ、レーシングカーといえども電動パワーステアリングが装備されるが、当時は、市販車でもパワーステアリング装着がまれな時代だ。舘信秀が、むきになったトヨタ・ファクトリードライバーの意気地とは?
【舘信秀】一番辛かったのは、富士スピードウェイのバンク(傾斜が付けられたカーブ)の先、横山コーナーと呼ばれた右カーブだね。バンクを下って行って、まだカント(傾斜)が残る右コーナーを、右手でハンドルを支えながら左手で5→4→3速と、ブレーキを掛けながらシフトダウンしていくんだけど、握力がなくて右手だけではハンドルを抑えつけていられないから、膝を使って右腕を支えたものね。それが一番辛かった。ただ、それを乗り越えてのファクトリードライバーだったから。
トヨタとファクトリードライバー契約をしたのが71年で、73年には石油危機でトヨタがレースから撤退したから、プロフェッショナルということでは、実質その3年間と短い間でしたよ。トヨタのレース撤退のときは、ここでまたレースも中途半端に終わってしまうのか?という悔しさがあり、レースを続けたいという気持ちでトムスを作って、レースを続けたのです。
トヨタのファクトリードライバーは当時6人いて、自分の戦う相手は、日産やホンダだと僕は思っていた。だけど、実は違ったんだね。あるとき、「敵はお前だ」と、同じトヨタのドライバー仲間に言われましたよ。今でも覚えている。まさかと思ったけど、たしかに現実問題としては、毎年12月に走行タイムを計測し、0.1秒でも仲間たちより遅ければ、ファクトリードライバーから蹴落とされてしまうんだからね。戦うべき相手は、実際チームの内にいたんだ。
だけど僕は、みんなと仲良くやるのが好きで、それは性格だと思う。そういう意味ではトムスを作って、そこにパブリカ高島屋に居た大岩さんを誘って、チーム一丸で、勝っても負けても、喜びも悲しみも分かち合うという今の姿が性にあっている。
レースって、つくづく人生と一緒だなと思うんだよね。クルマが良くて、ドライバーも良くて、メカニックも良くて・・・だけじゃなく、勝つためには、そこにちょっとした運も必要なんだよ。そこはまさに人生と似ていて、だから、一年に何回も繰り返しレースをやっていてもぜんぜん飽きないし、毎回も喜びがあるのだと思う。
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