THE NEXTALK ~次の世界へ~ SARD 代表取締役社長 加藤 眞 インタビュー(3/6)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
トヨタ退社と、コンストラクターへの第一歩
トヨタと日産の雌雄を決する戦いが、1960年代後半の国内レースを盛り上げてきたが、1970年の日本グランプリは、クルマの排ガス対応などを理由にまず日産が参戦中止を表明し、トヨタもこれに続く。
そして生まれたのが、1971年に富士スピードウェイではじまったGC(グラン・チャンピオン)シリーズだ。 それは、自動車メーカー主導から、個人レーシングチーム中心のレース参戦形態へ移行する時代の変化でもあった。
【加藤眞】私がトヨタを退社する一年前に、富士スピードウェイが、電通に、GC(グラン・チャンピオン/富士スピードウェイの看板レース:筆者注)をもっとよくするにはどうしたらいいか?という、テーマを投げかけたそうです。
そこで、電通の担当者が、第7技術部で私の上司の田中暁さんに問い合わせをしてきたのが発端で、私に、電通へ行ってレクチャーして来いということになった。そこで私が提案したのは、一つは、それまでのGCレースには、CAN-AM(アメリカ国内を転戦してシリーズ開催されていたレース:筆者注)を走る大排気量エンジンのレーシングカーが出ていましたが、それでは先行きに限界がある。
国内には、三菱とホンダがF2(F1の一つ下の格式のフォーミュラカーレース:筆者注)エンジンを持っており、トヨタには1.6リッターターボエンジンがあり、マツダにロータリーエンジンがあるので、そうした排気量2リッタークラスのエンジンを搭載するスポーツカーレースへ、3年先を目途に転換すべきであるということ。 もう一つは、日本の優秀なレーシングドライバーたちが海外へ出て行ってしまっているので、彼らを呼び戻し、レースに参加してもらわなければならないということでした。
そこで、電通の担当者の雨宮さんという方が、当時、日本で人気の高かった生沢徹を呼ぶにはどうしたらいいか?と、言うので、まだトヨタの社員でしたが、私がJAFに生沢くんのロンドンの住所を聞いて、「トヨタの加藤といいますが…」と、直接電話をしたのです。そして、「電通が、日本への渡航費と、持ち帰るレーシングカー代を支払うと言っています」という条件を示し、帰ってきてもらったのです。
ほかに成り手もないことから、加藤眞は、その生沢帰国の手配も手伝うことになった。 この計画は大成功をおさめ、大勢の観客が富士スピードウェイに詰めかけた。その実績が電通の雨宮氏に認められ、2リッターエンジンを搭載したスポーツカーレースへの転換という案も、トントン拍子で進む。
【加藤眞】日本のコンストラクターとして、「資金は出すから、まずはお前がやれ」と、雨宮さんに言われ、当時すでに私は今の弊社所在地に小さなガレージを持っていましたから、急遽、小野昌朗というエンジニアを探してきて、夜を徹して国産レーシングカーを製作しました。
まだトヨタの社員でしたから、夜8時までは会社の業務を行い、その後、夜中の2時までガレージでレーシングカーを作るという日々を過ごし、一年たって完成。それにあわせ、1972年の11月末にトヨタを退社し、12月にお披露目し、NHKの取材を受けるなどもあって、翌73年からGCシリーズに参戦しはじめたのです。
それにしても、海外から日本人ドライバーを呼び戻したり、レーシングカーをヨーロッパから持ち帰らせたり、そのうえ加藤眞に国産レーシングカーを作らせたり、当時の電通という広告代理店が、レースに自ら資金を投じるほど熱心であったことに筆者は驚かされた…
昔の広告代理店には、クライアントの単なる御用聞きというだけではない、豪気な人物が居たものである。また、自動車レースには、そうした勘の鋭い人を惹きつける魅力があるのも事実だろう。そして自動車メーカーが去ったあと、我々の手で!という情熱を燃やす個人が、レース界には大勢いた。
こうしてコンストラクターとして歩みはじめた加藤眞は、作るレーシングカーが国産であることにこだわった。
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