【高速道路】首都高の建設はオリンピック対策だった!
- 筆者: 清水 草一
【高速道路】首都高の建設はオリンピック対策だった!
日本道路公団による高速道路建設が動き出したころ、東京オリンピックの開催が決まります。当時の日本の道路は、地方は劣悪な未舗装路ばかりで、長距離移動には使おうにも使えないひどさでした。
しかしクルマは増加の一途をたどっていて、東京ではひどい混雑が発生していました。このままオリンピックを開催しても、失敗の烙印を押される。その解決策として考えられたのが、首都高速道路でした。
先進国では、戦前に一般道が整備され、戦後、自動車の大衆化と高性能化に合わせて高速道路が発達しましたが、日本では一般道が劣悪な状態のまま、自動車が大衆化へと向かったため、混乱が生じたのです。
ただ、まだ自動車による長距離移動はほぼ皆無でしたから、東名のような「都市間高速道路」より、当面の渋滞対策としての都市内高速が、オリンピックに追われる形で先に完成することになりました。
首都高はオリンピック対策ですから、オリンピックに間に合わせなければなりません。そのため、土地の買収に時間がかかるルートは極力避け、川や運河の上や埋め立てた川床、海上、道路上などをフル活用して、突貫工事が行われました。
現在、首都高が景観を悪化させていると言われる原因は、土地買収に時間がかけられなかったことにあります。
まずはオリンピックに必要な区間を優先ということで、都心と羽田空港、そして競技場のある代々木の3点を結ぶことが優先されました。最初の開通は、1962年12月の京橋~芝浦間(料金100円)。
その後、64年10月の東京オリンピックまでに、都心環状線の約4分の3と、そこから羽田および初台までの区間が完成しています。
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その後首都高には、後からできた東名や中央道、東北道などが続々と接続し、巨大なジャンクションと化して強烈な渋滞が発生しますが、それは、大きなビジョンなしに、対症療法として建設が始まったという、誕生の原点に原因があるのです。
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