高橋国光/今井優杏の「あなたの愛車教えてください!」(1/3)
- 筆者: 今井 優杏
- カメラマン:今井優杏
高橋国光/今井優杏の「あなたの愛車教えてください!」
今回のゲストは高橋国光さん!
言わずと知れたレース界の重鎮で、1999年に現役を引退されてからは、自らのレーシングチーム“チーム国光”にて監督を務めていらっしゃいます。
2輪では世界を転戦し、4輪ではティレルからF1にも参戦された国光監督。そんな国光監督の愛車は、BBSのホイールを履いたレジェンドでした。
―レジェンドを選ばれた理由を教えて下さい
先に、そもそも僕とホンダとの出会いからお話しますけど、第一回浅間火山レース(第一回全日本モーターサイクル クラブマンレース、1958年)という2輪のレースがあってね、僕はそれに出たんです。そうしたら優勝して、2年目もまた優勝して、1960年にホンダのワークスライダーになって、1965年までワールドGPを回りました。
1961年にジャーマンGPで日の丸を上げて、アイルランドのアルスタGP、アメリカGP、スペインGP、フランスGPを優勝したんだけど、1962年にマン島のレースで大クラッシュしましてね、10日間意識不明。生死をさまよいましてね。
そこからあまり調子がよくなくなってしまったんだけど、そんなことをしてるうちに鈴鹿サーキットが出来て、日本の自動車レースが始まりました。僕は2輪の選手だったんだけど、ホンダは当時2輪がメインで、そんなに自動車を販売してなかったんです。
それで、ホンダの2輪の選手だった僕は、日産の4輪のワークス選手になったんですよ。同じ頃、2輪でレースをしていたヤマハ系の選手はトヨタに入って、みんなの活躍もあって、どんどん日本の自動車レースが発展していったのは現在の皆さんがご存知の通りですよね。
―その頃は現在以上にレースの技術が市販車にフィードバックされていたんですね
その頃の日本の自動車は、全然良くなかったんですよ。だから過酷なレースに参戦するということによって、耐久性に優れた、高性能なエンジンやシャーシが作られるようになっていったんです。
レースに勝てば販売が伸びる。勝てば性能がいいということの証明になるから、メーカーが積極的にレースに参戦し始めた。そこからワークス体制と呼ばれる、メーカーが直接レースに出資する体制が過熱していったんですね。
おかげでどんどんレースを通じて自動車産業が発展して、今や日本が世界にクルマを卸す時代になったでしょう。
その昔、アメリカ、欧州のクルマっていうのは絶対的に素晴らしかったんだけど、日本のクルマはそれらにも負けない、あるいはすでに性能的には追い越した、というくらいのいいクルマができてきたんだよね。
―そして今、ホンダのレーシングチーム監督として、ホンダの最高級セダンであるレジェンドを選ばれた、ということですね。
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