カーデザイナー 児玉英雄 インタビュー(4/5)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
居心地のよかったオペル
オペルとは、どのようなところであったのだろう?
【児玉英雄】何しろ外国へ行くのははじめてですから、ドイツの印象と言っても「こんなところか…」というくらいで、ほかに比較できるものがありません。ドイツへ行く途中にインドのカルカッタに立ち寄ったのですが、そちらのほうがよほどカルチャーショックを受けました。
オペルのデザイン部門は、1964年にできたばかりで、66年に行ったときはまだ2年しかたっていないですから、建物は新しいし、広々として、清潔で、まるで外科の手術室のようでした。のちにアメリカのGMへ研修に行きましたが、まさにそことまったく同じ設備で、建物がオペルの若干縮小版という感じです。学生時代に訪問した日本の自動車メーカーは、デザイン室とは思えないような様子でした。
ドイツへ行く前には上智大学の夜間でドイツ語を少しやりましたが、ほとんど行かず、英語も日本の学校で習う程度でしたので、言葉はできませんでしたが、そこは若気の至りということで(笑)。ただ、デザインは絵を描けば意思疎通できるので、それほど苦労しませんでした。
よく「大変だったでしょう?」と言われますが、それほど苦痛だと思ったことはありません。 オペルは、ほかのドイツの自動車メーカーと違ってGMの子会社ですから、デザイン部長がアメリカ人であるなど、外国人が多く、英語が通じたので気楽でした。
1960年代のオペルデザインとは、どのような位置づけや存在であったのだろう?
【児玉英雄】当時、ヨーロッパといっても、まだカーデザインがそれほど系統立てられてはおらず、そのなかでオペルは、ヨーロッパの中で一番進んでいました。設備が新しいし、アメリカ流のデザインプロセスが先端をいっていました。ですから、ヨーロッパのなかでもデザイナーの憧れのメーカーだったのです。
したがって、1970~80年代にオペルに居て、それからほかの自動車メーカーへ行って出世したデザイナーも一杯います。いわば、オペルはデザイン学校のようでした。
メーカーを移るというのは、一種、出世や経済的な理由が大きいのではないでしょうか。ヨーロッパでは、企業を移るたびに収入も上がっていきます。
しかし私は、デザインすることが楽しくて、ほかから誘いを受けたこともありましたが、デザイナーとしての仕事はどのメーカーへ行っても同じでしょう。その点、オペルは居心地がよかったですよ。上司も4年ごとに変わりましたが、みなよくしてくれ、人間関係はいいし、仕事のしやすい環境でした。
児玉英雄の表情からは、ほんとうに居心地の良い会社であったという思いが読み取れる。それが、オペルというクルマの個性でもあろう。だが、我が強いわけではないその性格が、日本では輸入車群の中で自己を主張しきれず、いまでは正規輸入されなくなってしまうことにつながったのではないか。
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