THE NEXTALK ~次の世界へ~ SARD 代表取締役社長 加藤 眞 インタビュー(4/6)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
国産にこだわったル・マンへの道
富士スピードウェイで開催されたGC(グラン・チャンピオン)レースは、1971年にはじまり、加藤眞は、2年後の1973年から同レースに参戦を開始、そしてその年6月のル・マン24時間レース出場を目指す。
【加藤眞】GC(グラン・チャンピオン)レース参戦については、当初、トヨタがエンジンを出してもいいという口約束がありました。ところが、シーズン開幕直前の2月末に方針転換があって、エンジンを出せないと。
当初から私は、ル・マンへはトヨタのエンジンで、国産で行くという夢がありましたから、GCレースの方は、とりあえずフォードのエンジンを持っていたので、それで当面しのぐことができても、ル・マンへは国産で夢を叶えたいとの思いが強く、日産以外、レーシングエンジンを持っている自動車メーカーは全て巡りました。
JAFに関わっていらした三菱の方とか、ホンダは川本さんにもお目に掛かりましたが、結局ダメで、あとはマツダしかない。このとき、生沢くんが配慮してくれ、当時国会議員だった石原慎太郎さんから、当時マツダ社長の松田耕平さん(創業一族の3代目社長:筆者注)に手紙を書いてもらいました。彼は達筆で、勧進帳のような巻物に書かれた手紙を持って広島のマツダ本社を訪ねましたよ。
すると、耕平さんは、「あなたはトヨタとつながりがあるから、マツダがエンジンを無償で差し上げるのでは差支えがあるだろうから、1基50万円で、2基、そしてエンジニアを一人付けましょう」と言ってくださったのです。
我々はロータリーエンジンのことは何もわからないので、エンジニアに我々のガレージに来てもらい、ロータリーエンジン搭載のため相談にのってもらいました。
こうして、エンジンも車体も国産という当初の構想通りの態勢で、1973年のル・マン24時間レースに加藤眞は初参戦した。それは、国産レーシングカーとしても、また日本人としても初めてのル・マン参戦であった。以後、一時的に断続はあったものの、ル・マン24時間レースへ参戦を続けたマツダは、日本の自動車メーカーとして唯一、1991年に総合優勝を飾ることになる。
加藤眞率いるSARD(サード)は、1994年のル・マンで24時間レースの2/3をリードし主導権を握ったが、ゴールまであと2時間のところで、ギアチェンジを行う操作系統の溶接部分が欠損し、修理が必要となって2位に甘んじることになった。
【加藤眞】あれは、勝てたレース。勝てる自信があったし、相手の手の内も見えていた。ただ、予算が十分でなく、事前のテストができなかったのです… 自動車メーカーは、マニュファクチャラー(製造会社:筆者注)のタイトルが掛かったレースでチャンピオンを狙うべきだと私は思います。そういう意味で、過去ポルシェが16回勝って、それを受け継ぐかたちで今はアウディが10勝している。
フォルクスワーゲングループは、そうやってずっと耐久レースを戦い、マニュファクチャラーのチャンピオンとなっています。
F1は、ドライバーとコンストラクターにタイトルが掛けられていて、マニュファクチャラーのチャンピオンシップではありません。アウディが、いま、世界的にずっと販売好調を続けていますね。そのアウディにル・マンで勝てないうちは、その差が消費者に反映されます。
そして、加藤眞は、ル・マン24時間レースへの再挑戦に取り組んでいる。
【加藤眞】SARD(サード)のDNAは、レースをやること。自動車メーカーのお手伝いをするだけでなく、我々が開発した車両で、きちんと勝てないといけない。 そのための機能用品を開発・製造することをやることによって、緊張感や達成感が生まれ、それが次の世代へ、SARD(サード)のDNAを残す一つの過程となっているのです。
欧米のあとをしっかり追い続け、追い付き、そして追い越せないと、東南アジア諸国や、ブリックス(BRICs/ブラジル、ロシア、インド、中国の4か国)に追い越されるかもしれないという危機感を、加藤眞はもっている。 淘汰されないよう、生き残りをかけた第一歩が、ル・マン24時間レースの制覇だと加藤眞は位置付ける。
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