THE NEXTALK ~次の世界へ~ SARD 代表取締役社長 加藤 眞 インタビュー(2/6)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
本当は、アメリカでレース活動をしたかった
若き加藤眞を、レーシングカー作りに熱中させたきっかけは、本格的レーシングコースとして日本にはじめて開業した、鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリでの外国製レーシングカーの速さだった。
【加藤眞】学生時代、レース活動をやりたくてアメリカへ行きたいと考えていたんです。そうしたら、オヤジが、日本人の若者がアメリカでルンペン(語源はドイツ語のボロ服だが、かつて浮浪者の意味で使われてきた。今日ではホームレスと呼ばれる:筆者注)しているのを見て心配したんでしょう。「トヨタでもレースをやるようだから、そっちへ行ったらどうか」と言うので、トヨタに入社することになったんです。
ホンダも受けに行ったのですが、落とされました(笑)。学生時代は自分でドライバーとしてレースに参加したこともありましたが、アメリカでレース活動をしたいという思いの中身は、どちらかといえばクルマを作る方ですね。
当時、鈴鹿サーキットの第2回日本グランプリに出ていたブラバムの圧倒的速さを見せつけられ、それに憧れました。ジャック・ブラバムというオーストラリアの元F1ドライバーが、コンストラクター(レーシングカー製造者:筆者注)になって、そのブラバム製のレーシングカーが日本に来てものすごく速い。そういうブラバムに影響されました。
とはいえ、父親の助言を受け入れトヨタに入社した加藤眞は、どのような仕事をしたのか?
【加藤眞】入社して配属されたのは試作課でした。それがいずれ車両試験課となります。
ここでまずやらされたのは、登坂試験路と砂地試験路を作ることでした。しかし建築土木のことは何もわからないので、社内で分かる人を探し、まずは日本にある自動車の登坂性能をすべて調べ、登坂角度が異なる3つの登坂試験路を作りました。
それから、当時は矢作川の河川敷でトヨタは砂地の試験をしていたので、その砂の深さなどを調べ、本社のテストコース内に砂地試験路を作りました。3か月以内に試験路を作るよう指示されていたのですが、のんびりやっていたら土木担当にされてしまうと思って、急いで仕上げ、次の仕事をもらおうと、1か月ほどで試験路作りはやり終えました。
次が、初代カローラの開発です。試験車を一台与えられ、その操縦安定性試験を任され、悪いところをすべて直せと。私にとって、こんなにいいテーマはありませんでした。レースのエンジニアとして基本となる、ホイールアライメント(タイヤの位置決め:筆者注)、ロールセンター(カーブを曲がるときの車体中心:筆者注)、ロール剛性(カーブを曲がる際のシャシー剛性:筆者注)、タイヤなど…、あらゆることがその仕事に凝縮されています。
最初は何もわからないので、自動車工学の本や、トヨタの図書館にある資料を2週間かけて読み漁りました。また、タイヤメーカーの人たちと一緒に、パブリカより車両重量の重いカローラ用のタイヤ開発にも関わりました。開発過程では、絶えずレーシングカーだったらどうだろうと思いながら、理論を学び、実地を体験していったのです。
試作課には3年居ましたが、カローラの開発であらゆることを経験したので、あとのコロナやクラウンは楽でしたね。
続いて、トヨタ7の開発など、トヨタ社内でレースに関わる第7技術部に異動することになった。
【加藤眞】試作課のころ、毎年のようにレース担当役員の稲川さんに電話をして、異動のお願いをしていたのです。 役員の方々と直接話をする機会が特別設けられていたわけではありません。
しかし試作課の我々は、開発過程で、進捗を上司の方々に評価してもらうパネルという機会があります。そこで仕上がり具合を、直属の上司や役員の方、ときには豊田章一郎さん自身も確認に来られ、開発担当員として、横に乗って説明することがあり、役員の方々の顔は知っているというわけです。
当時、技術部の人員は1500人ほどで、主査は4人くらいしかいらっしゃらなかった。それで当時の主査の権限というのはものすごくて、長谷川さんとか、内山田さん(現在のトヨタ副社長の父:筆者注)は、我々にとっては神様のような存在でした。ある意味で当時の主査は、役員より怖い存在でしたね。
そして加藤眞の念願はかない、トヨタのレース活動にいよいよ関わることになる。だが、その先に思わぬ展開が待っていた。
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