THE NEXTALK ~次の世界へ~ 東海大学教授 林義正 工学博士 インタビュー(3/5)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
ル・マン24時間レースとは
「はじめは、ル・マンなどとんでもないと思っていました」と、林義正は言う。だが、やるからには「最高のチャレンジをする」というのが、日産時代からの思想であった。だから、なんとか成功させたいと、林は考えた。
【林義正】たまたま頼まれて私が設計したYR40TというYGK(山形県のエンジン研究開発会社)製のターボエンジンがあり、オーテックジャパン(日産自動車が株主の特装メーカー:筆者注)の動力計で計測運転をしていました。そして燃費も良く、パワーも出ていました。これに、中古のジャガーXJR15(スポーツプロトタイプレーシングカー:筆者注)を買ってきて、エンジンを載せ替え、宮城県のSUGO(国際レーシングコース:筆者注)で走らせたら、湘南キャンパスでも走らせるということにもなって、本当にル・マンへ行けるかもしれないとなったのです。
その年の秋に、富士スピードウェイで走らせ、311km/hの最高速度で当時のコースレコード(最速周回タイム)も出しました。しかし結局大学からはお金が出ない。そこで私が設計したコージェネレーション用の希薄燃焼エンジンが売れた資金や、協賛してくださる企業もあって、学生が設計していたシャシー構想に近い、フランスのクレージュ(レーシングカー製造会社:筆者注)のマシンを買い、それにYR40Tエンジンを載せ、参戦することになったのです。
2008年のル・マン24時間レースに、大学のチームとしては初参加し、惜しくも17時間38分で、駆動伝達部分の破損により棄権することとなった。
「ル・マンは、やるときつくて、もう二度とやらないと思うのですが、帰ってくるとまたやりたくなる」と、林義正は語る。ル・マン24時間レースは、毎年6月の土曜の午後4時にスタートし、翌日曜の午後4時にゴールを迎える。だが、出場するとなれば、その週の月曜~火曜に行われる車検、水曜~木曜の予選(昼夜)、金曜は決勝へ向けた準備に費やされ、実質一週間に及ぶスケジュールをこなしていかなければならない。
他に世界には、林が日産時代の1992年に制したアメリカのデイトナ24時間レースもあるが、それでもなぜ、林はル・マンにこだわるのか?
【林義正】デイトナも技術的には難しく厳しいレースです。しかし、ル・マンは、技術に加え、文化度が違うと思うのです。文化度とは…説明が難しいですが、私はよくフランス革命をル・マンに置き換えるのです。
フランス革命によって、フランスは絶対王政が潰され、それによって民族の気持ちが変わり、上から下まですべてがごっちゃになる。その、ごっちゃになるというのがいいんですね。老若男女、クルマが好きでも好きでなくても、色んな人がル・マンには集まってくる。
日産時代、1988年に初めてル・マンへ行ったとき、観客席のおばさんと話をしました。彼女は別にレースが好きというわけではないけれど、これが楽しみだと言うんですね。プログラムを見て、色の綺麗なクルマを選び、またドライバーの写真を見て昔の恋人に似た人がいると応援し、一晩たって、あくる日も、まだそのクルマやドライバーが走っているのを見るのが楽しいと。
上から下までごっちゃということでは、空にはジェット戦闘機が飛んで五色の煙をたなびかせ、その下でレーシングカーが走っている…また、フランスのフランソワ・フィヨン首相も今年はル・マンを観に来ていましたよ。大人も子供も、そして犬までも(笑)、みんなル・マンに集まってくる。それが文化です。
文明は、世の中を便利にするだけです。文化は人間だから持つのであり、それは人間の心の豊かさであって、音楽や芸術と同じようにモータースポーツがある。詩歌音曲が平安時代から連綿と続いてきたように、モータースポーツという文化を続けることで、自動車産業がこれからも成り立っていくのです。 そこに、さらに教育的付加価値を与えたことによって、スピリット・オブ・ル・マン・トロフィーを戴いたのではないかと思っています。
林義正は、スピリット・オブ・ル・マン・トロフィー25番目の受賞者となり、シリアル番号と名前が刻印された腕時計をル・マン24時間レースの主催者ACOより贈呈された。日本人ではほかに、27年間ル・マンに連続出場したレーシングドライバーの寺田陽二郎が受賞者の一人として居る。
欧米ではレースを文化として捉えるが、日本は税金対策という経済手段でしかないから、人も集まらないし、心に残らない。とくに経営上層部はそうだと、林義正は苦言を呈する。
そして「日本のレースはプライベートチームが支えているのです」と話す。1971年の映画『栄光のル・マン』で、物語はスティーブ・マックィーン主演のレーシングドライバーが、ル・マンの街を訪れ、その静かな街のたたずまいから物語は導かれる。一般公道をサーキットに見立てレースが行われるル・マンだからこそ、映画制作においても単に猛然と走り去るレーシングカーの競争だけでなく、静寂なフランスの小都市の風景が織りなす、文化の香りを漂わせた作品にしたくなるのではないか。
そういえば、1966年の『グランプリ』という昔のF1映画も、その舞台は公道を走るモナコであった。
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