THE NEXTALK ~次の世界へ~ トヨタ チーム トムス 監督 舘信秀インタビュー(4/5)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
F1という夢への挑戦
1974年にトムスを設立し、以後、トヨタとの関係を保ちながら、グループC(スポーツプロトタイプカー)、グループA(ツーリングカー)、GT(グランド・ツーリングカー)、さらにF3(フォーミュラ・スリー)のエンジン開発とレース参戦を、舘信秀は積み上げてきた。
92年には、フランスで開催される伝統の一戦、ル・マン24時間レースで総合2位の成績も残している。その舘信秀が、レースの最高峰として目指したのがF1(フォーミュラ・ワン)だった。
【舘信秀】1980年に、イギリスに会社を作ったのが始まりです。最初はF3のエンジンをモータースポーツの本場で試したいということからでした。次にそこがグループCの世界選手権の基地になり、そして、自分の夢の中にあったF1へということになるんだけど、バブルがはじけたらスポンサー(協賛企業)がみんな引いてしまい、撤退するしかなかった・・・。
そして、設備や人員をそのまま買ったアウディが、次の年の2000年にル・マンで初優勝するんだから、実に惜しかったね~。そこには鮒子田寛(元トヨタ・ファクトリードライバー)が居残っていて、アウディ3連覇の次にはベントレーで03年にル・マンで優勝するわけですよ。それほどの力量がイギリスのチームにはあった。
F1をやるに際して、デザイナーのジョン・バーナードとデザインチームごと契約したんです。レーシングチームは、デザイナー次第で決まる。で、バーナードが「F1初年度はどのくらいのポジションを狙っているんだ?」と聞くから、真ん中ぐらいと言うと、「じゃぁ30億円」だと。もしトップを狙うなら100億円だと。後の時代になるともっとお金が掛かったのだろうけど…そういう契約条件については実にハッキリしているんだね、彼らは。
うちが解散した後、バーナードはフェラーリへ移って、そこで作ったF1マシンは、うちでやっていた風洞実験用のモデルとまったく同じ形だったよね。そのジョン・バーナードのデザインチームに居た寺本というのが、ダンパー(サスペンションの減衰装置)の天才で、アイルトン・セナもダンパーの話は彼としていたという男でね。彼が、バーナードの所から離れたあと、トムスのダンパー「Advox」を開発してくれたのよ。
この記事にコメントする