オートックワンショートストーリー 「アルファスパイダーのシンデレラ」 大久保ともみ

  • 筆者:
  • カメラマン:フィアット グループ オートモービルズ ジャパン株式会社

アルファスパイダーのシンデレラ

今までたくさんの車に乗ってきた。

ポルシェ997、シボレーコルベット、BMW7シリーズ、メルセデスGL…。

それなりの成功をおさめなければステアリングを握ることができない高級車たち。

20代でドライバーズシートに座れる自分はなんてラッキーなんだ、と毎日のように思う。 ……って自分のクルマじゃないけど。

舞台俳優だけじゃ生きていけないと、夢の国の近くにあるショッピングモールの駐車場でバイトを始めたのが確か3年前。

ブランド物のキーケースにぶら下がるキーを受け取って、お客さんの代わりに駐車場に車を入れるのが仕事だ。 つまり、僕は、たった5分だけのオーナー、というわけだ。

仕事の内容は単純で誰でもできそうだけど、思っているほど楽じゃない。

やってくるのは自分の年収×5倍以上のクルマばかり。

傷つけたら、もちろん罰金。その1カ月は生活していけない。

それから、暑い日も寒い日も、忠犬ハチ公のように、ご主人様がやってくるのを外でじっと待っていなきゃならない。

精神的にも、肉体的にもハードな仕事。

クルマ好きじゃなかったら、絶対に続かないと思う。

午後6時15分前、ヨーロッパの門番のような制服を着て持ち場へと出て行った僕を、意外なお客さんがクルマ寄せで待っていた。

「…これが最初の仕事?」 僕の目に飛び込んできたのは、片方だけの華奢な赤いハイヒールだった。

僕はクルマを眺めるように、そのハイヒールを見つめた。 光沢感があるのに、下品な印象を受けないのは、その形が洗練されているからだろう。

緩やかなS字を描いたサイドとヒールのバランスが絶妙だ。 高級ブランドのものなんだろう。

場違いにも関わらず、妙に堂々としている。 置き忘れられたというよりも、本当に駐車場に運ばれているのを待っているようだ。

それが可笑しくて、僕はくすっと笑ってから、そのハイヒールを拾い上げた。

その時、パッと明るい光が僕を照らし、一台のクルマが滑り込んできた。 左ハンドルの真っ赤なアルファスパイダー939。音からして2.2のほうだろう。

ドライバーの右腕がせわしなく動いている。最近、あまりお目にかからないMTだ。 大きめのエキゾーストノートを巻き散らかした後、僕の目の前でキュッと止まった。

運転席に座っていたのは、意外にも20代後半の女性だった。 ショートカットに、日焼けした顔。そしてレンズ面が大きなサングラス。 白い麻のシャツが良く似合っている。

アルファよりも、マスタングのコンバーチブルが似合いそうな雰囲気だ。

彼女がエンジンを止めるやいなや、僕はすぐ赤いハイヒールを差し出した。

「これ、取りにきたんですよね?」

「やっぱり、ここだったか」

サングラスに隠されていた瞳があらわになった瞬間、僕はさっき思ったことが間違いだとわかった。 陽気さだけじゃない、情熱を感じさせる瞳。

彼女の乗るクルマは、やっぱりアルファスパイダーだ。マスタングじゃない。

「ドライビングシューズ忘れちゃって。ハイヒールじゃクラッチが踏めないから脱いだの」

ドアがゆっくりと開き、彼女はすっと足を出した。

「そこに置いてもらえる?」

僕にはその言葉が耳に入らなかったらしい。 思わず、彼女の足に靴を履かせていた。

「なんだかシンデレラ、みたいね」 自分の行動がおかしかったことにやっと気付いた僕はなんとか言葉をつなげた。

「この靴も、イタリア製なんですか」

「よくわかったわね。男の人でこのブランドを知ってるなんて」

僕は彼女に説明した。ブランドを知っていたわけじゃない。ハイヒールのラインがイタリア車のボディラインを彷彿させたからだと。

僕がクルマ好きだとわかった彼女は嬉しそうに話を続けた。

「ねぇ、イタリア人は曲線を描かせたら世界一だと思わない?」

それには僕も同意した。そして僕らしくもなく、こんな言葉を続けたんだ。

「よく似合ってますね。靴も、アルファスパイダーも」

「じゃじゃ馬だってこと?」

そうじゃない。 僕は新しいアルファスパイダーの、落ち着いたスタイリングながらも、情熱を隠しきれない感じが彼女によく似合っていると思ったんだ。

けれど、そんなこと、初めてあったお客さんに言えるわけもない。

サッとクルマから降りた彼女は寂しそうに微笑んだ。

「でもね、本当に似合うのは、ジュリア・スーパーなの」

「ジュリア・スーパーですか?」 ジュリア・スーパーは流麗なボディデザインを得意とするアルファロメオの中でも珍しいボクシーなスタイルのセダンだ。

人気はあったものの、そのアルファらしくないフォルムから『醜いジュリア』なんていうあだ名までつけられていた。

「いえ、スパイダーのほうが似合ってますよ」

彼女は寂しそうな表情を崩さずに、僕に言った。

「仕事は12時まで?」 僕がうなずくと、彼女は思いがけない提案をしてきた。 「私が12時までに戻ってきたら、この車を運転させてあげる」

僕の手にアルファの鍵を握らせ、チケットを受け取ると、彼女は足早にショッピングモールへと消えていった。

それから12時まで僕は彼女とアルファスパイダーのことを思いながら仕事を続けた。

3速以上シフトレバーを動かしたことがなかったスパイダーを、6速まで使って走らせることができる。

それ以上のことを想像したのも本当だけど、とりあえず今日は5分以上、ドライビングシートに座れるだけで十分だと思っていた。

12時まで残り15分。やっぱり彼女は現れそうにない。 最初からそのつもりで、あんなことを言い出したんだろう。

じゃじゃ馬に乗ったシンデレラにからかわれただけか…。

がっかりしていた僕のところにひと組のカップルが戻ってきた。僕はきょとんとした。

自慢じゃないが、預けた人の顔を見ればどのクルマだったか、駐車券を見なくても大抵わかる。だけど、その客はさっぱり思い出せない。よほど、浮かれてんだな…そう思っていたとき、男がそっけなく駐車券を差し出した。 僕は動揺した。

その駐車券は、じゃじゃ馬スパイダーのだったんだ。 慌てて女のほうを振り返る。そこにいたのは髪の長い、ドイツ車が似合うような女性だった。

「この駐車券はお客様のでしょうか?」

「……ああ、友達にクルマを持ってきてもらうように頼んだんだ」

僕は何が何だかわからないまま、アルファスパイダーをクルマ寄せにまわした。 料金を支払い終えた男は、ふと僕に紙袋を差し出した。

「これ、捨てといてもらえないかな?」

中を見ると、そこにはあの真っ赤なハイヒールが左右揃って入っていた。 僕はわけがわからないまま、車体を揺らしながら出ていくアルファスパイダーを見送った。

僕は気がついた。ナビゲーターシートに座る女性がどことなく勝ち誇った表情をしていることに。

そういうことだったのか…。 僕はすべてわかった気がした。 彼女がここを訪れた理由も、ドライブに誘った理由も。 自分とドイツ車が似合う女性のどちらがアルファスパイダーに乗るかを決める、最後の話し合いをしに、ここへ来た。

たぶん、一度、怖気づいて帰ったに違いない。 だけど、このハイヒールが彼女を呼びもどしたんだ。 二度目にここを訪れた時には、もう答えを出していたんだろう。

自分が選ばれたとしても、あの男とスパイダーには乗らないと。 だから僕を誘ったんだ。 彼女がここに戻ってくる可能性はゼロに近いと思いながら。

そして彼女はあの男に与えられたものをすべて手放した。 きっと、自分から選択したに違いない。

こういうとき、オープンスタイルのクルマは残酷だ。 風を受けて走っていると、すべての感覚がいやがおうにも鋭くなる。

それがアルファスパイダーならなおさらだ。

本能と情熱が焚きつけられ、冷静な判断なんてできなくなるだろう。

彼女は後悔しないだろうか? アルファスパイダーをほかの女に渡してしまったことに。

僕は彼女の瞳を思い出していた。 やっぱり、彼女にジュリアスーパーは似合わない。 ボクシーなセダンを乗る人じゃない。

隠しきれない情熱をときおり発散できるアルファスパイダーがぴったりなんだ。

僕は赤いハイヒールを捨てずに取っておくことにした。

時計が12時を回った。 けれど彼女は戻ってはこなかった。

END

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筆者
樺田 卓也 (MOTA編集長)
監修者樺田 卓也 (MOTA編集長)

自動車業界歴25年。自動車に関わるリテール営業からサービス・商品企画などに長らく従事。昨今の自動車販売業界に精通し、売れ筋の車について豊富な知識を持つ。車を買う人・車を売る人、双方の視点を柔軟に持つ強力なブレイン。ユーザーにとって価値があるコンテンツ・サービスを提供することをモットーとしている。

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