カーデザイナー 児玉英雄 インタビュー(3/5)
- 筆者: 御堀 直嗣
- カメラマン:佐藤靖彦
GMへ直接「デザイナーになりたい」と手紙を出したんです
そもそも、カーデザイナーを目指したきっかけは、なにであったのだろう?
【児玉英雄】私は、横浜生まれですが、父の仕事の関係で、岡崎、三島、下関、福岡、東京と移り住みました。福岡に住んでいた中学生のころ、製菓会社の工場長をしていた父を迎えに来るクルマが、シトロエンの11CV・トラクシオン・アヴァンという前輪駆動の乗用車でした。
一方、子供の記憶として残っていたのは、日本ではオート三輪で、欧米のクルマの素晴らしさに憧れた思いがあります。そして中学のころから、カーデザイナーになりたいと思っていました。
高校のころは、東京・赤坂の学校に通いながら、通りを走るアメリカ車のきらびやかさに心をときめかせました。生活の面でも、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフに憧れた時代です。
大学は、多摩美術大学へ進みましたが、カーデザインを教えるような場はなく、すべて自修です。
1960年代と言えば、まだ情報も限られており、アメリカのタイムズ誌やニューズウィーク誌にカーデザインの記事が載っていたので、つたない英語で読んだり、渋谷の道玄坂に古本屋街があって、米軍基地から流れてくる雑誌を手に入れ、むさぼり読んでいました。ちょっとした小さな記事も、貴重な時代です。
夢中でクルマの情報を集める、若かりし頃の児玉英雄の姿が目に浮かぶ。限られた状況の中から、クルマへの夢が膨らんでいった。
【児玉英雄】大学のクラスに4人ほどクルマに興味をもつ学生が居て、一緒に日本の自動車メーカーへ行ってデザインの話を聞いたりもしました。しかし、当時の日本のカーデザインはまだはじまったばかりで、カーデザインを目指すなら最先端に関わりたいと思ったのです。 当時の最先端は、アメリカのデトロイトと、イタリアのトリノでした。
イタリアは、新しい魅力的なデザインを発表していましたが、どちらかと言えば芸術的であり、私は、物質文明的なアメリカのデザインに魅力を感じ、そこに潜り込めないかと考えてGMに手紙を送ったのです。
そうしたら、「描いた絵を送ってこい」と言う返事が来て、それまで描きためていたスケッチブックや絵を送ったら、「OKだ」と言うのです。いや、驚きました。
児玉英雄の描くスケッチには、定評がある。実際、のちのカーデザイナーたちからも、児玉英雄の描いた絵を目標にしたという声もあがっているほどだ。絵の勉強は、デッサンや淡彩、そして大学での工業デザインを学んだだけと児玉英雄は言うが、そのスケッチの秀逸さは小さいころからの才能であったようだ。
【児玉英雄】ところが、ヴィザの関係もあって、アメリカで仕事をするのは難しいと言うので、代わりにGMの100%子会社であるドイツのオペルはどうかということになりました。それまで、ドイツなど考えたこともありませんでした(笑)。まぁ、でも行ってみようかと。
1960年代半ばの日本は、外貨持ち出しの制限がありましたので、500ドルをもって、親にドイツへの片道切符を買ってもらい、行きました。
当時は、企業から海外出張へ行くに際しても、羽田空港に見送りの人々が集まり、「バンザイ」をして送り出したものだった。
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