日本にない日本車「DATSUN(ダットサン)」~日産が懐かしいブランド名を再起用する理由とは~/桃田健史(1/2)
- 筆者: 桃田 健史
- カメラマン:桃田健史/日産自動車
”官営八幡製鉄所”との、意外なつながり
日産自動車は2013年7月15日、インドのニューデリーで、新型車「ダットサン GO」を世界初披露した。
ダットサンブランドとしては、約30年ぶりの復活だ。「GO」はインドをはじめ、ロシア、インドネシア、南アフリカで2014年から販売を開始。インドでは、同国南東部の都市チェンナイのオラガダム工場で製造する。
同車のスペックは、全長x全幅x全高=3785x1635x1485(mm)の5ドアハッチバック車。エンジン排気量は1.2リッターでトランスミッションはマニュアル5速。ベストバリューを狙った商品企画だが、スマホと車載器の連携など、新世代の世界戦略車として最新テレマティクスにもしっかりと対応している。
それにしても「ダットサン」とは、なんとも懐かしい響きだ。だが、どうしていま、「ダットサン」復活なのか? そもそも「ダットサン」とは何か? 日産と「ダットサン」との関係はどうなっているのか? さらには、日本でもそのうち、「ダットサン」が販売されるのか?
そうした疑問を解き明かすため、まずは時計の針をいまから112年前、1901年(明治34年)まで戻してみよう。
「鉄は国家なり」。時の明治政府は、日本国の経済発展、国力増強を推進するため、英国や米国での鉱工業産業促進施策を手本とし、製鉄事業を起こした。それが、官営八幡製鉄所(所在地:現在の北九州市八幡東区)だ。つまり八幡は、当時の最先端産業技術が集約された場所だった。
その北東方向に10kmほど、海側の地域が戸畑だ。そこに1910年、アメリカの最新技術を駆使した戸畑鋳物が設立される。創業者は山口生まれの鮎川義介(29歳)。彼は明治時代に外務・内務・大蔵大臣など歴任した政治家・井上馨を大叔父に持つ家柄。東京帝国大学(現在の東京大学)で機械工学を学んだ後、「大企業や役所勤めは性に合わない」と、職工として日米の鋳物製造現場で学んだという、破天荒な人物だ。
日産自動車の原点はM&Aから
その1年後、東京の麻布でエンジニアの橋本増治郎が、日本初の自動車製造所と言われる「快進社自動車工場」を立ち上げた。同社製品は、「速く動く」という意味での「脱兎のごとく」から「脱兎(ダット)号」とした。その後、実用自動車製造と合併し「ダット自動車製造」となる。
そして1931年、鮎川は事業拡大を狙って、戸畑鋳物自動車部を創設。1933年には戸畑鋳物グループとして「ダット」の製造権を得る。それが日産自動車の原点である。現代風に言えば、日産はM&Aにより自動車産業に参入したのだ。
また「ダットサン」とは、「ダット」の進化系という意味合いから、「ダットの子孫(son)」とし「Datson」。そこから派生して「Datsun」になったといわれている。
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