吉本大樹選手/今井優杏の「あなたの愛車教えてください!」(2/2)
- 筆者: 今井 優杏
- カメラマン:今井優杏
―レースにおいてのアストンマーチンというクルマは、どんな性格だったのでしょうか。参戦当初、大きな話題になったアストンですが、実際にレースをしてみての率直な感想を伺いたいです。
アストンマーチンはとても歴史のあるクルマですが、スーパーGTのようなハコ車レースという部分においては僕も未知数の部分が多かったんです。
最初、チームからドライバーとしてのオファーを受けたときに、クルマが何になるのかをまったく聞かされていませんでした。
アストンということが解った時の気持ちは正直に言うと『どうなんかなぁ』。日本でのレース実績も殆どないですし、自分の中でもチャレンジでした。しかし乗ったときに“アストンらしさ”というものはしっかり残っていて、面白いなと思いました。
―“アストンらしさ”とは?
ラグジュアリー感です。
―レーシングカー仕様になっていてもなお、ですか!レーシーというよりはコンフォートだったんですね。
そうです。ノーマルのトルク感もそのまま残っていました。 FIA GT車両ですから、他のJAF GT車両とはすこし違って、ドタドタした少し重たい感じはしますけど、コーナリングもしっかりしています。
フロントノーズが長いので見た目はフロントヘビーに見えますが、重量配分が前後50:50でバランスが良いんです。それは外観から想像できない部分でしたね。レーシングカーの絶対値として決して軽いわけではないんですが、見た目ほど重くはない。
ただ、マイナートラブルには悩まされました。市販モデルでも高級車ゆえのトラブルがけっこう大変みたいなんですけどね。
―たとえば?
バッテリーが上がった時に、普通のクルマってジャンプスタートをしたらエンジンがかかりますけど、アストンはコンピューターに繋がないとエンジンがかけられない。 昔ヨーロッパに住んでいた頃のスポンサーがDB9に乗っていたんです。
そのDB9を借りてモナコからポールリカールまで走って、3日間のテストの間停めっぱなしにしていたらエンジンがかからなくなってしまったんです。
アストンはバッテリーの搭載位置が後部座席の下なんですよ。これも前後重量配分のためなんですが、そのバッテリーを出すのに内装を外して…と大変な騒ぎになりました。だから、なにか不測の事態が起こった時に自分で対処できないというデメリットはあるかもしれません。
―う~ん、高級車ならでは、という感じですねぇ。トラブル対応も高飛車!
それだけしっかり作り込まれてるということでしょうね。 ここでDB9をほったらかして置いて帰ったのは吉本君です(笑)
―うわ~、桁の違うエピソードだ! ちなみに、海外レース経験も豊富な吉本選手ですが、レースキャリアのスタートはなんだったんですか?
僕は11歳から18歳まで親の仕事の都合でオーストラリアに住んでいたんです。18歳で帰国してフォーミュラレースを始めました。実はカート経験はゼロなんですよ。
―わ、そうなんですか?意外!
オーストラリアでもレースは出来るんですが、どちらかというとハコ車がメイン。
僕はF1を目指していたので日本に帰国して、レース雑誌から鈴鹿のガレージを探して電話して…という感じで、パチンコ屋さんに住み込みで働きながらFJに挑戦したんです。
翌年フォーミュラトヨタに参戦したんですが、どうあがいても金策が尽きて。そんなときに韓国でレースがあったんです。その韓国のF3レースの前座で行われたF1800クラスになんとか出たら、それが評価されてさらに翌年の契約に結び付きました。
韓国で1年間走ってチャンピオンを獲って、21歳のときにFTRSのテストを受けたんですが、年齢のせいで落ちてしまったんです。成績ではなく年齢ということで納得がいかずに掛け合った結果、F3のオーディションの機会を得てシートを勝ち取りました。
―そこからどうやってヨーロッパとのコネクションを築いたんですか?
自分でコンタクトを取ったんです。マシンにも恵まれなかったこともあって、このままではトヨタからの契約がなくなる、と思って。その後もスーパー耐久やGT300クラスなどのレースの機会はあったんですが、僕はどうしてもフォーミュラカーでレースをしたかった。
そんなとき、とあるご縁でコーディネーターとしてのオファーが来たんです。
―ドライバーではなく?
はい、すでに世界シリーズに参戦していたレーシングドライバーが、メカニックとのコミュニケーションが出来ずに勝てないということで、レース知識のある僕に相談が来たんですよ。普通だったら絶対に受けないですが、これはチャンスだと思いました。
レースの翌週行われたバルセロナでのテストにも同行出来るということで、こっそりスーツとヘルメットを黙って持って行ったんです。そこで頼み込んで乗って、タイムを出し、残りの全戦に出られることになりました。
それをきっかけにGP2へ参戦する足掛かりとスポンサーを得たんです。その頃の2年間は参戦と同時にF1へのオファーやテスト参加へのエピソードもたくさん来て、今思っても嵐のようなすごい2年でした。
色んな人や感情や状況が入り乱れて、とうとうF1参戦は叶わなかったんです。F1という世界は速さだけではない色んな事情があって、日本に帰国し、フォーミュラニッポンに参戦しました。
―想像を絶する勢いで広がる話と勢い、でも成績を出し続けなければいけないというプレッシャー…世界のトップに駆け上がるということは、大変なことなんですね。
契約や交渉のために2日間でバルセロナから日本、マレーシア、再びバルセロナと移動したりね(笑)。大変でしたよ。 ヨーロッパでは本当にいろいろありましたが、GP2に参戦出来たおかげで色んなサポートも得ることが出来、その後GP2アジアに持ち込み金ナシで参戦したり、南米でのレースに参戦したり出来ましたから、貴重なものでした。
家が裕福なわけでもなく、メーカーの後押しがあるわけでもない中でGP2の2年間で経験したすべての出来事は、本当に本が1冊書けるくらいすごかった。かつて他の誰も経験したことがなかったでしょうね。
―良く乗り越えられましたね。
GP2からF1というヨーロッパのレースは年間何億もかかる話になりますからね。
―しかしお話を聞いていると、キーワードというかそのチャンスをモノにするために一番の武器になったのは、幼少の頃をオーストラリアで過ごされたという語学力にあるという気がします。
英語を話せる、というのは絶対的な強みです。でなければ自分で交渉することもコネクションを拡げることも不可能ですから。
先程話した南米・アルゼンチンのレースもヨーロッパでのレースのときに組んだチームメイトからの誘いで、ゲストドライバーとしてジャック・ビルヌーヴと僕を呼んでくれたんですよ。こういうのはマネージャーや通訳を通じて話していたら築けない信頼関係から成り立つものですから。
F1には乗れなかったですが、乗れるかも、というところまで行ったし、ヨーロッパレースにおいてはシリーズチャンピオンを結果としては獲れなかったけど、いい経験でした。ですから今後も日本にだけ留まっていようとは思っていないです。
まだまだ活動の場を拡げて行かれるんですね!楽しみです!
今井優杏の「取材後記」
東日本大震災において、大阪から真っ先に行動を起こし、数々のボランティアをされるなどの活動をされたこともレース界では有名なエピソード。
F1ドライバー小林可夢偉選手が作ったSAVE JAPANチャリティーブレスレットのコーディネートも、実は吉本選手がされていたんです。今後も支援は続けていきたい、出来れば地元に雇用を生めるような活動をしていきたい、と話して下さいました。
ますますパワフルな吉本選手の活動はオフィシャルHPでチェック!
http://www.hiroki-yoshimoto.com/jp/
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